ロハスなお話
今日は年に一度の「道造り」です。
特別に道を造る訳ではではありませんが村の事業として何百年も続いていると思われます。
私が生まれ育ったこの村は岡山県東北部の出湯の町旧美作町の山間部で「海田」地区です。
その中を5つの村に別れ「中組」という村になります。
約35軒件ほどの家があり、谷間にはわずかな田んぼと茶畑が広がります。
今日は一軒から一人が出て農道の草刈、側溝の掃除、農村公園の草刈、村に一箇所あるため池の草刈などが行われます。
わずかジュース代程度の補助金が美作市からいただけるらしく現場写真の撮影も私の仕事となりました。
私の子供の頃はどこの家にも玄関横に和牛が飼ってあり、和牛と共に生活していました。
家庭の生ごみは全て牛の餌になるばかりか、田んぼのアゼ草、稲ワラなども良質の牛の餌となっていました。
そして牛の床にはワラ・籾殻などが敷かれていました。1~2週間に一度、牛の糞と共に敷きワラの交換が行われ、牛小屋から出された牛糞は良質の肥料として有機栽培を支えていました。
熊原池(ため池)の土手を刈りながら・・・・
私 「こりゃあ良い牛の餌になるでぇ~」
村の人「いるんなら!ヒロちゃんとこまで持って行ちゃろうか?」
私 「40年前なら喜ぶなあ~」
村の人「40年前ならこんなになるまで伸びてないわぁ~!
こんなになる前にみんな喜んで刈りょ~たわぁ~!」
今から考えると子供の頃はのどかだったように思えます。
自給自足でロハスな生活が基本でした。
夕刻になるとおじいちゃんと魚釣り。風呂は薪で焚き、風呂釜の下の火で魚を焼いて夕食の一品になる事もありました。
その頃の海田はどこまでも丁寧に草刈されて、子供たちはアゼ道を山を走り回って遊び、夕刻には風呂焚きの煙が帯になって海田の谷間を漂っていました。
今は自動お湯張りの温水器でスイッチ一つで適度にお湯張りと保温が出来ます。
昔は風呂焚きは子供の仕事、一番風呂はおじいちゃんか親父で
「お風呂加減はどお~」 母ちゃんが尋ねてました。
テレビは一家に一台、ご飯はかまど、洗濯は川
今から思うと不便な時代だったかもしれませんが
誰もが普通に環境に優しく、思いやりの生活が出来ていた頃でした
いつの間にか、40年前の懐かしいロハスなお話になってしまいました。